ヨナオシクス

まったり三十代フリーライター(ワープア)が様々なことを調べています。主なソースはWikipediaとYoutubeです。

表現と伝えたい気持ち

最近は表現について考えることが多い。表現と書くと抽象化され過ぎていて記号を眺めているような感覚だったが、「表に現す行為」と書くととても分かりやすい。

 

一体何を表に現そうとしているのかといえば恐らく喜び、怒り、悲しみ、寂しさ、その他日々の生活のことなど自分の内側にあって外側から見えないものなのだと思う。でも、その中には実は自分の内側にあるものでありながら、自分でもそれが何かわかっていない事も結構あったりする。

 

では、表現は何のために存在しているのかといえば、内側にあるものを表に現すことによって他人に「伝える」こと、そして自分の内側の見えない心の働きに「気づく」ことを成すためにあるのではないかと思っている。

 

今までは表現にはどこかカッコいい響きがあって、派手な舞台、高尚な言い回し、緻密な描写、情報量を詰め込むなど目立つことこそが表現であると認識していた。そして、それはそれで一つの表現活動なので間違っているわけではく、「伝わりやすい」という特性があるので珍重されている面もあるのではないだろうか。

 

表現にはそもそも正解なんてものもなくて、自分に合っているのか合っていないのかみたいなシンプルな尺度で測ればそれでいいのだと思うし、表現は競争じゃないと言っていた人の意味がやっと最近分かった気がした。

 

最近、アニメ映画のミュージックビデオを見ることがあって、ぼーっと眺めていたらほんの一瞬の一コマに女性キャラの日用品のファンデーションが映っていて、なぜかそれがひび割れていたのだった。

 

「あ、割れている」くらいの感覚で見ていたのだが、後々考えていたらなぜあの一瞬の見ているか見ていないのかも分からないものにあそこまで力を入れて緻密に描いているのだろうという疑問が湧いてしまった。

 

ファンデーションが割れていようが割れていまいが物語の進行には特に何の影響もないわけで、ただそれを描いた人にとってあの一瞬でファンデーションを割れさせないといけない何かがきっとあったのだろう。それが何かはよく分からないが。

 

ただ、一つだけ分かることがあるとすれば描き手に「何かを伝えたい」という強い意志があるということだけだった。ただただ、何かを伝えたいという気持ちをファンデーションのひび割れを描くことで成そうとしている。その意図を読み取ることは難しいが気持ちは読み取れる。言語表現以外での意思の伝導はぼやっとしていて結構難しいんだろうなと感じる。

 

あまり目立たないが、日常会話も「伝える」ことを様々な形で創意工夫を持って成されている立派な表現活動だと思う。そして、実はこれが一番難しくて難儀している。言語上の意味を読み取るだけではなく、言外の見えない意図を汲み取る作業が結構難しい。さらに環境によってその共同体の了承コードがあってそれを再定義していくために時間がかかる。

 

営業活動を生業としている人はすごいと思っていて、瞬時に空気感を読み取って臨機応変に了承コードを再定義していくのは生まれ持ったセンスと場数が為せる技なのだろう。それでも100%は恐らく至難の技だと思う。

 

昔、「1/3の純情な感情」という歌が流行っていたが、あれだけ必死に歌っても1/3も伝わらないのなら、残りの3/4なのか4/5は一体何が伝わっているんだろう。いつも目の前の人が激昂していて、きっと何かいらないものが伝わっていることは確かなのだがきっと自分が伝えたいことよりそれが一番大事なのだろうな。当時何気なく聴き流していたが今聴くと薀蓄があるなと思った。

 

色々と書いてしまったが要は何がいいたかったかといえば、世の中の人は「伝える」ことに本当に必死なのだと思う。それを言葉、絵、音楽、踊り、科学など方法は違えどとにかく何かを伝えたくて必死なのだと思う。技法とかそういうことではなくて一体何を伝えたいのか、意外にそこはよく分からなかったりする。

 

最近自分がなぜこんなに本を書くことに執着していたかの理由が分かって、それはきっと伝わらないことに本当に思い悩んでいたんだと思う。それが最近分かってすごいスッキリした。

 

いずれそれを形にできるようにできたらいいな。

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

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