ヨナオシクス

まったり三十代フリーライター(ワープア)が様々なことを調べています。主なソースはWikipediaとYoutubeです。

表現と在り方

大学時代に何かを書きたいと思っていたことがあって、色々と漫画を読んで引き出しを増やしていくようなことを繰り返していた時期があった。結構な冊数を読んだ気がするが今となってはほとんど内容を憶えていない。

 

不思議なことに吸収すれば吸収するほど自分から出てくるものが稚拙であることが分かるようになってしまい、どんどんとドツボに嵌っていくことになる。「オリジナリティのある表現」というものがよく分からなくなったのである。一発当てて何もしないで寝て暮らしたいと夢見て始めたものが、結果的に人並み以上に何かする羽目に陥ってしまったのだから本末転倒を身をもって体現したのだと思う。

 

インターネットの回線が高速化し始めた頃だろうか、音楽制作ソフトに興味が湧いて家族が購入したパソコンを触り始める。ネットをダラダラと見ていたらとあるページを見つける。

 

芸術とは一体どのようなものなのか私見を記載したページだったのだが、それがきっと今の自分の価値観のベースになっているような気がする。

 

そこで語られていたのは芸術は絵を書くこと歌を歌うことなどの形式の中にあるものではなく、「新しい価値観を教える教育活動の中にこそ本当の目的がある」ということだった。


その内容は手段が目的化していた自分の根本を覆すもので未だに分かりきれていない。

 

ブランキージェットシティというバンドいたが、歌を歌っている浅井健一という人は独特のキーの高い変わった歌い方をしていた。あれは狙って高い声を出しているものとばかり思っていたが、とあるインタビュー動画を見ていたら「自然」に声を出していると本人が言っていた。

 

ものすごい個性があの声にはあって、他の人が真似をしてもただの面白い人になってしまう。フットボールアワーの人がパロディで「ジェッタシー」という曲を演奏していた。もちろんパロディでやってはいたのものの、ギターは想像していたより上手くてしっかりとしていた。でも、やっぱりあの歌い方や曲調を真似ても同じ世界観が出せないところに何か見えない線引きがあるのだと思う。

 

結局のところ「自然さ」が表現にとってとても重要で、不自然な状態での表現は「する」で自然な状態で行う表現は「在る」くらいの差があるのだと思う。

 

「する」ことが目的化しているうちは心の中が学びのモードになっていて教えられる状態にはなく、「在る」ことが自然にできるようになったときに初めて人に物を教えることができるようになるのではないだろうか。

 

「教える」というよりかは「示す」の方がしっくりくる気がするが、正しく在れているかどうかの指標はきっと「〇〇さんのようになりたい」と身近な人から不意に言われるかどうかなんだと思う。

 

「そんなのやめときなよ、むしろこっちがそっちになりたいよ」くらい不意で自然な感じというか。

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