ヨナオシクス

まったり三十代フリーライター(ワープア)が様々なことを調べています。主なソースはWikipediaとYoutubeです。

表現につきまとう恥ずかしさ

大昔、小学校の音楽の授業で合唱の練習があり、たまに先生の気まぐれで生徒全員がソロで歌わされる事があった。自分の順番を待つ間は心ここにあらずでいざ順番が来ると恥ずかしさで声が震えていた。

 

あの時に感じた「恥ずかしい」という感情をふと思い出した。

 

本を書きたいと思ってはいたもののいざ書こうと思うと何かが邪魔をして、それが何か分からなかったがある時、知人に「自分の文章を読まれるのが恥ずかしい」と自分でも思いがけない言葉を口にしたことがあった。

 

無自覚に表現に対して「恥ずかしい」という感情を持っていたことにはっと気がついたのだが、「肛門のシワを一本一本数えられる恥ずかしさ」というその知人の比喩がとても的確だと思った。

 

表現とは自分の内側にあるものを表にさらけ出す行為なので、そこには恥部を衆目にさらすくらいの恥ずかしさを伴うということに気付かされた。きっと「どうだ、俺の肛門のシワは一本一本がきれいな曲線を描いているだろう」と人前で堂々と主張することの恥ずかしさに葛藤していたのだろう。

 

昔少年ジャンプで連載されていた変態仮面という漫画があったが、それは純朴な青年がパンティを被ると服を脱ぎ捨てて変態技で悪を成敗するというものだった。「これは私のおいなりさんだ」という象徴的なセリフを口にする変態仮面の姿は威風堂々としていた。そんな変態仮面ですら己をさらけだすためには薄い布という最低限のバリアが必要なわけだから、全てをさらけだして表現活動をしている人はとてもすごいと思う。

 

表現を行う人のあり方としては変態仮面のように「俺はこういう人間だ俺を見ろ!」という確固たる姿勢を崩さないか、「俺の恥部をあますことなく見てくれ!」というドMなものがあるような気がする。

 

表現活動にはきっとそういった「性」の匂いがあって、性的な欲求を様々な形で昇華させたものが表現として表に現れてくるのではないかという気がしている。

 

そういえば、マスターベータソンというオナニーのオリンピックに相当する世界大会で優勝した日本人がいることを知り、フランスのテレビ局に取り上げられたドキュメンタリー動画を見たことがあった。

 

彼の日常生活に密着していたのだが、その姿はストイックで取材が行われている間もトレーニングを欠かしていなかった。その横で彼女のような人が趣味のミシンで縫製作業をしていて時折時間を測るのを手伝ったりしていた。とても情報量が多い番組だった。

 

その異様な光景の中その家で飼っていた猫が縦横無尽に部屋を行き来しているのを見てあることに気がついた。もしこれが通常のオリンピックのアスリートだったら、何も違和感がないはずで、オナニーのアスリートであるだけで空間が歪んでしまっていたのだ。人間が見たらそこに違和感を感じるものでも、動物からしたらオナニーをしていようがミシンで縫製をしていようがどうでもよいことなのだろう。つまり、恥ずかしさとは生物固有のものというよりは、人間社会が生み出した感情なのではないだろうか。

 

オナニーのネタには「臭いが無い」という理由でエロDVDを使っているということだったが、世間一般では汚らわしいと認識されている行為の中に「純粋さ」という相矛盾したものがあってなにか表現活動の原型を見た気がした。社会的なものではなく、自分の中の原始的な衝動に立ち返る行為とでもいうのだろうか。

 

表現活動をするために情報を集めたり、表現のテクニックを磨くようなことに意識が取られていたが、きっと本質的な部分はそこではなくていかに「変態」でいられるかということが重要なのだと思う。

 

この結論に達したときに、「なぜ変態になるために努力をしているのだろう」という素朴な疑問が頭に浮かんで自分がしていることが全て馬鹿馬鹿しく感じてしまい色々とどうでもよくなって自暴自棄になってしまった。変態の人は努力して変態になっているのではなく、初めから変態でその価値観の中でただただ生きているだけなのだから。

 

明日も寒くなりそうだなあ。。

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