ヨナオシクス

まったり三十代フリーライター(ワープア)が様々なことを調べています。主なソースはWikipediaとYoutubeです。

死のある風景

「死のある風景」

 

暑さによってそんな言葉がふと頭に浮かぶ。

調べていたら同名の小説があるようだ。

 

思い起こせば三十数年の間に多くの死が目の前を通り過ぎていった。

 

一番初めに目にした死はどのようなものだっただろう。それは、とても昔のことで幼少期に信号待ちの車の中から見た車に轢かれて倒れていた女の子だった。その場では何が起こっていたのかよく分からなかったが、後日同じ場所を通り掛かるとそこには花束がたむけられていて、そこで初めて事実を飲み込めた。

 

それまでも、親戚のおじいさん、おばあさんが亡くなると骨へと変わっていく姿を目の当たりにしてはいたが、お年寄りにだけに約束されていたと思っていた「死」は誰のすぐ側にもあるものだと理解した瞬間だった。

 

それからも死は身近で姿を現した。学生時代には受験に失敗した子が自身の命を絶ってしまっていた。直接の知り合いではなかったが、もっと粘って別の生き方を模索してもよかったのではないかと自ら命を絶つ理由がよく分からなかった。

 

身内の死を経験した時に一番「死」を身近に感じたような気がする。それまでは死は対岸の火事のようなものだったが、死神に順番待ちの整理券を手渡された瞬間だったと思う。それからというもの、いつ来るか分からない死に怯えながら生きていたような気がする。

 

さらに、社会に出るともっとたくさんの死が現れる。

 

「自ら命を絶つ人、業務中の事故で亡くなる人、超人のように体を鍛えていたものの病気であっという間に亡くなる人」

 

これだけたくさんの事例があると、老後まで生きるのが当たり前という概念は消え失せて、もはや死は隠された遠い世界のものではなくなってしまった。

 

日常生活でその姿を確認することは難しいが、今この瞬間も長短バラバラの寿命のろうそくは煌々と明かりを灯してその灯芯を削っている。

 

死が姿を現すことの意味は、逆説的だがいつまでも自分の生が続く訳ではないことも示している。そして、それは自身の本来の役割に気がつかせてくれるシグナルであるとも思っている。

 

作家の故中島らも氏は次のようなことを言っていたそうだ。

 

人間にはみな「役割」がある。その役割がすまぬうちは人間は殺しても死なない。逆に役割の終わった人間は不条理のうちに死んでいく。

 

「呼吸だけが自分が唯一続けられていることだ」と冗談でいうことがあるが、様々な死を見ているとここまで続けていられる自分を純粋に褒めていいのではないかと悩んでしまう。

 

ロックスターは27歳だったが、次は何歳がマイルストーンなのか。

厄年とかかな。。

死のある風景 (文春文庫)

死のある風景 (文春文庫)