ヨナオシクス

まったり三十代フリーライター(ワープア)が様々なことを調べています。主なソースはWikipediaとYoutubeです。

表現と在り方

大学時代に何かを書きたいと思っていたことがあって、色々と漫画を読んで引き出しを増やしていくようなことを繰り返していた時期があった。結構な冊数を読んだ気がするが今となってはほとんど内容を憶えていない。

 

不思議なことに吸収すれば吸収するほど自分から出てくるものが稚拙であることが分かるようになってしまい、どんどんとドツボに嵌っていくことになる。「オリジナリティのある表現」というものがよく分からなくなったのである。一発当てて何もしないで寝て暮らしたいと夢見て始めたものが、結果的に人並み以上に何かする羽目に陥ってしまったのだから本末転倒を身をもって体現したのだと思う。

 

インターネットの回線が高速化し始めた頃だろうか、音楽制作ソフトに興味が湧いて家族が購入したパソコンを触り始める。ネットをダラダラと見ていたらとあるページを見つける。

 

芸術とは一体どのようなものなのか私見を記載したページだったのだが、それがきっと今の自分の価値観のベースになっているような気がする。

 

そこで語られていたのは芸術は絵を書くこと歌を歌うことなどの形式の中にあるものではなく、「新しい価値観を教える教育活動の中にこそ本当の目的がある」ということだった。


その内容は手段が目的化していた自分の根本を覆すもので未だに分かりきれていない。

 

ブランキージェットシティというバンドいたが、歌を歌っている浅井健一という人は独特のキーの高い変わった歌い方をしていた。あれは狙って高い声を出しているものとばかり思っていたが、とあるインタビュー動画を見ていたら「自然」に声を出していると本人が言っていた。

 

ものすごい個性があの声にはあって、他の人が真似をしてもただの面白い人になってしまう。フットボールアワーの人がパロディで「ジェッタシー」という曲を演奏していた。もちろんパロディでやってはいたのものの、ギターは想像していたより上手くてしっかりとしていた。でも、やっぱりあの歌い方や曲調を真似ても同じ世界観が出せないところに何か見えない線引きがあるのだと思う。

 

結局のところ「自然さ」が表現にとってとても重要で、不自然な状態での表現は「する」で自然な状態で行う表現は「在る」くらいの差があるのだと思う。

 

「する」ことが目的化しているうちは心の中が学びのモードになっていて教えられる状態にはなく、「在る」ことが自然にできるようになったときに初めて人に物を教えることができるようになるのではないだろうか。

 

「教える」というよりかは「示す」の方がしっくりくる気がするが、正しく在れているかどうかの指標はきっと「〇〇さんのようになりたい」と身近な人から不意に言われるかどうかなんだと思う。

 

「そんなのやめときなよ、むしろこっちがそっちになりたいよ」くらい不意で自然な感じというか。

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表現につきまとう恥ずかしさ

大昔、小学校の音楽の授業で合唱の練習があり、たまに先生の気まぐれで生徒全員がソロで歌わされる事があった。自分の順番を待つ間は心ここにあらずでいざ順番が来ると恥ずかしさで声が震えていた。

 

あの時に感じた「恥ずかしい」という感情をふと思い出した。

 

本を書きたいと思ってはいたもののいざ書こうと思うと何かが邪魔をして、それが何か分からなかったがある時、知人に「自分の文章を読まれるのが恥ずかしい」と自分でも思いがけない言葉を口にしたことがあった。

 

無自覚に表現に対して「恥ずかしい」という感情を持っていたことにはっと気がついたのだが、「肛門のシワを一本一本数えられる恥ずかしさ」というその知人の比喩がとても的確だと思った。

 

表現とは自分の内側にあるものを表にさらけ出す行為なので、そこには恥部を衆目にさらすくらいの恥ずかしさを伴うということに気付かされた。きっと「どうだ、俺の肛門のシワは一本一本がきれいな曲線を描いているだろう」と人前で堂々と主張することの恥ずかしさに葛藤していたのだろう。

 

昔少年ジャンプで連載されていた変態仮面という漫画があったが、それは純朴な青年がパンティを被ると服を脱ぎ捨てて変態技で悪を成敗するというものだった。「これは私のおいなりさんだ」という象徴的なセリフを口にする変態仮面の姿は威風堂々としていた。そんな変態仮面ですら己をさらけだすためには薄い布という最低限のバリアが必要なわけだから、全てをさらけだして表現活動をしている人はとてもすごいと思う。

 

表現を行う人のあり方としては変態仮面のように「俺はこういう人間だ俺を見ろ!」という確固たる姿勢を崩さないか、「俺の恥部をあますことなく見てくれ!」というドMなものがあるような気がする。

 

表現活動にはきっとそういった「性」の匂いがあって、性的な欲求を様々な形で昇華させたものが表現として表に現れてくるのではないかという気がしている。

 

そういえば、マスターベータソンというオナニーのオリンピックに相当する世界大会で優勝した日本人がいることを知り、フランスのテレビ局に取り上げられたドキュメンタリー動画を見たことがあった。

 

彼の日常生活に密着していたのだが、その姿はストイックで取材が行われている間もトレーニングを欠かしていなかった。その横で彼女のような人が趣味のミシンで縫製作業をしていて時折時間を測るのを手伝ったりしていた。とても情報量が多い番組だった。

 

その異様な光景の中その家で飼っていた猫が縦横無尽に部屋を行き来しているのを見てあることに気がついた。もしこれが通常のオリンピックのアスリートだったら、何も違和感がないはずで、オナニーのアスリートであるだけで空間が歪んでしまっていたのだ。人間が見たらそこに違和感を感じるものでも、動物からしたらオナニーをしていようがミシンで縫製をしていようがどうでもよいことなのだろう。つまり、恥ずかしさとは生物固有のものというよりは、人間社会が生み出した感情なのではないだろうか。

 

オナニーのネタには「臭いが無い」という理由でエロDVDを使っているということだったが、世間一般では汚らわしいと認識されている行為の中に「純粋さ」という相矛盾したものがあってなにか表現活動の原型を見た気がした。社会的なものではなく、自分の中の原始的な衝動に立ち返る行為とでもいうのだろうか。

 

表現活動をするために情報を集めたり、表現のテクニックを磨くようなことに意識が取られていたが、きっと本質的な部分はそこではなくていかに「変態」でいられるかということが重要なのだと思う。

 

この結論に達したときに、「なぜ変態になるために努力をしているのだろう」という素朴な疑問が頭に浮かんで自分がしていることが全て馬鹿馬鹿しく感じてしまい色々とどうでもよくなって自暴自棄になってしまった。変態の人は努力して変態になっているのではなく、初めから変態でその価値観の中でただただ生きているだけなのだから。

 

明日も寒くなりそうだなあ。。

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30代で考え始めた引き算の大切さ

30代半ば頃から物事に対する考え方がどんどん変わるようになったと思う。

 

10代、20代の頃はとにかくインプットを増やしたいという気持ちが強くてなんでもいいからやる事にしていた。興味があることはもちろん、興味がなくても必要であればやっていた。

 

そうしようと思った背景には「本を書きたい」という一つの理由があった。動機はとても不純で働きたくなかったので一発当てて寝て暮らしたいという熱い想いがあったからだった。ただ、本もあまり読まない人間がどうしたら売れる本を書けるのか、アホなりに考えた結果がとにかく「変わった経験」をすることだった。

 

 

年を取ってから「あれがやりたかった」と後悔したくない気持ちもあったので、若い体力のある内にしかできないような無茶なことはなるべくやるようにしていた。とにかくいいことも悪いこともなんでも本を書くことの「プラス」になると前向きに捉えて。

 

結果的に自分の世界は広がって、もし本を書きたいと思っていなかったら単調に生活していて、こうしてブログを書こうとも思わなかったんじゃないだろうか。とはいえ「本を書きたい」というのを現実から目を背ける言い訳にして苦しみを誤魔化して生きながらえていた部分はかなりあったと思う。

 

そういった中で、色々と自分の中でやってみたいなと思ったことを一通りやり尽くしたと心の底から思えたのが三十代前半頃だったが、それから抜け殻のようになってしまって数年間は自暴自棄な時期が続いていた。

 

さあ、そろそろ何か書くかと思い始めた途端「結局自分は何が書きたいのか分からない」という事実に直面したのが大きかったのかもしれない。色々と経験して自分の内側に様々な情報を腐るほど蓄積した結果何が書きたいのか分からないというのは、もはやアホの極みだとしか思えなかった。

 

とある小説家の講演内容をネットで読んでいて、自分の中の余分なものを削ぎ落とし尽くして伝えたいことが何も残らなかったらそれは表現の才能がないと書いていたが、正にその事実を突きつけられたようだった。

 

「本を書きたい」という自分を支えていた動機も無くなり、体力の衰えも感じ始めて、自分はもう若くはないと心の底から思うようになったので、今までの「足し算」の考え方を「引き算」の考え方にシフトすることにした。ちょっと前に流行った断捨離を物心両面で行ったのだった。

 

とりあえずモノを捨てた。モノ持ちが良い方だったが大分捨てたのですごい部屋がすっきりして、部屋が汚くならなくなった。一度捨て始めるとどんどん捨てたくなってくるので、そのうち何も無くなりそうで恐い。

 

次に関心の範囲を変えることにした。今までだと本を書くために必要だと、社会や政治や経済の話もある程度はチェックしていた。しかし、「家庭」や「職場」といった最低単位の身の回りの社会もコントロールできないのに、それの集合体である大きな社会や政治に関心を持っても意味がないと切り捨てることにした。経済の話にしても、マクロの話よりもまず自分の金銭管理をする方を優先するようにした。

 

過去についてもあまり引きずらなくなった。変に過去にいい体験をしていると、それにすがってしまい負のスパイラルに陥りがちだったが、あれは夢だったんだなとおもうことで新鮮な気持ちで新しいことに取り組めるようになった。

 

とにかく今まで闇雲に自分に「足し算」していたものを、バッサバッサと「引き算」し始めて無くしていくとすごいすっきりして不思議と物事が好転し始めた。使える時間も増えたし、いかに自分が不必要なことに気を取られていたかに気付かされた。

 

結局元々何がしたかったかを振り返ると「何もしたくなかった」訳で、自分らしさを十数年ぶりに取り戻せてよかったなと思う、

人生を変える断捨離

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40代が迫ってくる

年が明けてもう3週間近く経過した訳で、これをあと11回繰り返したらあっという間に今年も終わってしまうのだと思った。年々時間が経つのが早いと感じるようになってはいたが、三十代になってからそのスピードは明らかに上がったような気がする。

 

このペースで行くとあっという間に40代になってしまうのだが、あまり自分にその実感が無い。それ以前に30代であるという自覚も薄くて、同じ年齢でしっかりと所帯を持って子供が高校生になろうとするような人がいるのを知ると、成人してからこの20年近く一体何をしてきたのだろうなあと虚無感を感じてしまったりもする。

 

20歳のときには成人式といった儀式があったので、「自分は大人になってしまったんだな」と精神年齢はそれに見合わないものの一応実感はあったと思う。それに対して、30代というのはそんな丁寧なものはなくて、惰性でずっと20代を引きずりながらダラダラと生きてきたのでいまいち自分が30代だという実感が湧きづらい。20代の若い人達と話してやっと自分が20代ではなくなっていたのだとようやく気づいたのが一年前くらいの話だった。

 

自分が世代別に抱いているイメージはこのような感じだ。

 

20代=若者

30代=若者ではないものの、若者らしさを微かに残した最後の世代

【40代=若者でも老人でもない】

50代=老人への入り口

60代=老人

 

自分自身が20代前半の頃に上の世代をどう見ていたかを思い返すと分かりやすいが、20代後半はまだ自分と同じ若者の匂いがしていたものの、30代の人は見た目を若作りしていても何かこう若くない感じがしていた記憶がある。見た目を取り繕っても内側に蓄積されたものは隠せないということなのだろうか。

 

そういった経験上、肉体的な部分もそうだが感性的な部分で若者でいられるのは30代までで、40代というのは若者でも老人でもない不気味な世代だと今でも勝手に思っている。

 

40代は見た目や所作は明らかに若者ではないのだが、かといって老人というほど老けている訳でもなくて、でも一般的な会社では一番働き盛りの世代で金と権力を持っていてパワフルだったりすることもある。その反面体力は明らかに落ちたという話を40代の人はよくしている。

 

なんかこうつかみどころがなくて40代になるのは嫌だなあと思っていた時期もあったが、0を100にするような活動ではなく今までの蓄積をつかって色々と老獪に立ち回るようなことをしていく時期として割り切ったら楽しいんだろうなと思えるようになった。

 

色々考えていくと、世間では「老害」という言葉がよく使われているものの、その「老害」に自分がなる日が迫っているとは。

 

今叩かれている老害の人達はなんやかんやしっかりと所帯を持って、理不尽な状況を耐えて生きてきた訳で、自分が老害になったら本当に目も当てられないなと思った。

 

そういえば「バカと付き合うな」という本が売れているらしくて、読んでいたら「老害」と「円熟」の違いについて説明していた。両者の違いが「自分が老いているのを自覚しているのかしていないのかの違い」と書いてあってなるほどと思わせるものがあった。

 

こんなことを書くようになるということは、人生の折り返し地点をいつの間にか迎えてしまったということなのだろう。

会社人生を後悔しない 40代からの仕事術

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夢から醒めた夢

年始にインフルエンザにかかる。年末年始は病院の外来がどこもやっていなくて、ポカリスエットを飲んでなんとかやり過ごした。「飲む点滴」の異名を持つだけあるなと感動を覚えた。

 

インフルエンザにかかると高熱がでるのだが、高熱がずっと続くと幻覚のようなものが見え始める。苦しさを通り越して一種の楽しさを感じたので安楽死とはこんな感じなのかなと思った。

 

しかし、熱が冷めるとめくるめく夢のような世界が終わって現実に引き戻される。ただ、その現実もまるで夢のような世界に感じた。

 

頭の中に「夢から醒めた夢」という単語が浮かんだので検索したところ、赤川次郎が同名のタイトルの絵本を出していたらしい。

 

お化け屋敷に迷い込んだ幼い女の子が幽霊と入れ替わりこの世とあの世を冒険する話だそうだ。劇団四季がミュージカルで上演していたそうなので有名なのだろうけど知らなかった。

 

赤川次郎が自分の娘のために書いたものだということだが、どんな意図があったのかとても気になる。

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そんな感じで高熱から醒めたら今まで当たり前のように過ごしていた世界がとても異質なものに感じて、夢を見ているような日が数日続いていた。

 

コンビニに足を踏み入れても、こんなたくさんの商品が当たり前のように手に入る状況はまるで何かに化かされているかのように思えた。そういえば、セブンイレブンは一時期ずっと忌野清志郎の「デイドリームビリーバー」が流れていたけど、あれは白昼夢を見ている消費者を揶揄していたのだろうか。

 

外をフラフラ歩いていると高層ビルや高速道路の高架が目に入るが、当たり前のようにああいう巨大建造物を利用しているものの、なぜあんなものが存在できているのか知らないで使っていることにちょっとした恐怖を感じた。

 

こうしてネットに物を書き込んで会ったこともない人が自分の文章を読むというのも、当たり前のようになってしまっているが悪い夢のような話ではないだろうか。

 

人と話してもネットを見ても人は夢の話をしていて、あれが欲しい、あれになりたい、あれがしたいと日々幻を見ているようだった。

 

寝ている間に見る夢は自分のものだが、起きている間に見る夢は「集合夢」というべきか様々な思念が具現化して入り混じっていて、誰かの夢の中で毎日生きているような気持ち悪さがあるのだと思った。

 

そういえば、幽遊白書という漫画で戸愚呂兄という敵キャラがいて、幻覚を見せる「邪念樹」という植物を植え付けれられる話があったことを思い出した。


戸愚呂兄は不死身なので一生養分を吸われながら幻覚と戦い続けるというオチが残酷だなと思っていたが、現実世界も似たようなものなのかもしれない。

 

夢から醒めて我に返ると、知らず知らずのうちに何か得体の知れないものに邪念樹を植え付けられていて、今までずっと幻覚を見ていたのではないかという気分がしばらく抜けなかった。

 

本当に夢から醒める日は一体いつになるのだろうか。

デイ・ドリーム・ビリーバー?DAY DREAM BELIEVER?

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エロスとタナトスと文章を書くこと

年の瀬。

 

慌ただしい年の暮れという意味があるそうだが、今年の年末はそれなりにバタバタしていた。「ツケの支払い」が語源でもあるそうだが来年からは今までに溜めにためたツケの支払いをするはめになりそうだ。

 

今年最後は「文章を書くこと」で締めくくろうと思う。

 

なぜ文章を書こうと思ったのだろうといつも思うことがある。今までの人生を振り返っても本を読むことはあるものの、本が積みあがるほど読書にのめりこむほど本を読んでいない。

 

大学生の頃は暇を持て余していたので漫画喫茶に入り浸っていて、「ここにある漫画を全部読んでやろう」と謎の目的意識を持ちながら漫画を読んでいた。ただ、それでもいわゆる活字本を読むことはなかった。読んでも頭の中に言葉が入ってこなかったのだ。漫画は絵で文章を補完してくれているので理解できたことも大きかったのかもしれない。

 

その漫画でさえもいつの頃から読まなくなった。インターネットの回線が高速化してそこでできることが増えて段々とパソコンを触る時間が増えたこともあったし、社会に出ると空想に耽溺するよりも目先の問題に対処する時間が劇的に増えたことで、漫画どころではなくなったことも大きかった。

 

そういう経緯があるので文章には本当に縁がなかったし、読書家だったり文章のセンスがある人を見ると今でも感心する。

 

文章が上手い人間に関して自分の中で一つの基準があって、音楽の歌詞を理解できる人は文章のセンスがある人だと思っている。カラオケに行った時に中島みゆきの曲を歌っていた友人が「この歌詞はいいんだよなあ」みたいなことを言っていて、当時音楽はメロディとリズムしか聴いていなかったので、歌っている人は音ゲーのように適当に言葉を当て込んでいるものとばかり思っていた。

 

歌詞にメッセージがあることを理解できるようになったのは30代に差し掛かるころだったかもしれない。それまで言葉はいつも霧のようにぼやけていて、よく日常生活を送れていたなと自分でも感心する。

 

文章に対する感覚が以前よりも鮮明になったのは、やはり「死」の存在が身近に数多く姿を現したことが大きかったのでのではと感じている。

 

心理学者のフロイトの話に「エロス」と「タナトス」というものがあるそうだ。

 

エロスは「生」への欲望で、タナトスは「死」への欲望ということだそうだが、生活や生きる手段に文章を選択する人は「タナトス」が強めな人が多かったので興味を抱いたことがあった。

 

例えば小説家の芥川龍之介太宰治三島由紀夫も「死」への距離がとても近くて、文章を生業にする人が自ら自分の命を絶っていたり破滅的だったりするのはなぜだろうとその共通点について考えていた。もちろん文章を書く人間が全員が全員そうではないが。

 

文章というくくりにするとざっくりとしすぎだが、「ロジック」重視な考え方をする人と置き換えるともっとしっくりくるような気もする。数字を扱うような税理士、会計士、エンジニア、プログラマといった職業についている人も、傾向としては血色が悪くて死にそうな人が多かった。

 

そういえば、苫米地英人が出ていた何かの番組をyoutubeで見ていたときに、一流のプログラマ自閉症紙一重でほっておくとすぐ自殺してしまうので自身の会社ではカウンセラーが職場に常駐しているようなことを言っていた。コンピューターのプログラマーというのは21世紀の文豪なのかもしれない。

 

ロジックを追及すると何かを積み上げているように見えて実は死への距離を縮めているのではと考えるようになった。例えるなら効率を最高に突き詰めると自殺するのが最も効率がいいみたいな。

 

 エントロピー増大の法則というものでは、自然現象は乱雑な方向または「無秩序」へと向かっていくものと説明されているらしい。生命活動は「秩序」を作り出すためこのエントロピーの法則に反しているということだそうだ。


乱雑さに耐えきれなくなった精神が、ロジックを通して秩序を形成したいと欲したことが文章を書くことを促したのだろうか。ロジックは確かにゴミ屋敷のゴミのように積みあがった情報を整理するのに便利なツールではある。

 

タナトスがあるということはその反対にエロスもあるのだが、何かの雑誌でヨシダナギという女性カメラマンの人の特集に興味深い内容があった。

 

アフリカに取材に行った際に、現地で牧歌的に暮らしている現地のアフリカ人から「考えてはだめだ」と言われたそうだ。現代人は「考えること」を様々な理由から強いられて当たり前になってしまっている訳だが、旧来の生活様式の中で本能的に暮らす人には「考えること」が有する弊害が何か見えているのかもしれない。

 

確かに何も考えなかったときのほうが世界が無限に広がっている感じがしたし、考えることによって情報を整理し尽くしていくと最後に残るのは「ああ、こんなものだったのか」といった落胆だったりすることはある。

 

キリスト教徒ではないが、知恵の実を食べて楽園を追放された人間の話は年を追うごとにその意味を実感せざるを得なくなる。

 

「考えること」と「考えないこと」、「エロス」と「タナトス」のバランスをどうやって上手くとっていくかが来年からの課題かな。

 

来年はよい年になりますように。

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)

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マイクタイソンと天使と悪魔とハト

ある日ネットでマイクタイソンのシャドー動画を見たことがあった。

www.youtube.com

 

拳が見えないなんてのは漫画の世界だけの話だと思っていたので、世界を取る人間というのはやっぱすごいんだなと感心してしまった。

 

名前は知っているものの、どんな人物か知らなかったので調べたことがあった。

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マイクタイソンは元々は気の弱い少年でいじめられっ子だったそうだ。しかし、ある日可愛がっていたハトを目の前でいじめっ子によって殺されてしまい逆上した結果いじめっ子をボコボコにしてしまう。

 

ハトを殺されたことでタイソンの生活は一変する。人生のターニングポイントが「ハトを殺されたこと」と普通の人が言ってもここまでの迫力はでないだろう。

 

その後、自分の強さに気が付いたタイソンは非行を繰り返し少年院に収監されてしまう。そこで、タイソンのボクシングセンスに目をつけたのが過去に世界チャンピオンを何人も輩出した「カスダマト」というボクシングコーチだった。

 

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マイクタイソンの保護責任者として生活の面倒とボクシングのトレーニング両面でサポートして、マイクタイソンに自分の親よりも親らしいと言わしめたカスダマトは、清廉、潔白で興行の金に群がるギャングとも戦うような人物だったそうだ。

 

若い頃に喧嘩で片目を失明しており、20代から白髪という特異体質だったそうで、ボクシング漫画の「はじめの一歩」に登場する鴨川ジムの会長のモデルでもあるという。

 

カスダマトの言葉に以下のようなものがある。とても力強い言葉が並ぶ。

 

「モノを欲しがり過ぎてはいけない。堕落はそこから始まるのだ。車が欲しいと思う、洒落た家にピアノも欲しいと思う、思ったが最後、したくない事までやり始める事になる。たかがモノのためにだ」

 

「高い次元においてリング上の勝敗を決するのは、肉体のメカニズムではなく精神力である」

 

 

最後までやり遂げるか、やり遂げないかで、人は英雄にも臆病者にもなるのだ

 

 

マイクタイソンの強さの秘密は「ピーカブー」と呼ばれる顔面を両手で覆うスタイルが挙げられるが、メンタル面でのカスダマトによる「てこ入れ」こそが本当のコアだったのではないだろうか。ヘビー級としては身長が180cm前後と小柄ながらも、自分より大きいファイターに向かって進んでいくためにはかなりの精神力が必要となる。

 

しかし、カスダマトが死去するとタイソンの精神は不安定となり次第に坂を転げ落ちていくことになる。

 

タイソンが堕ちていくキーとなった人物が「ドン・キング」と呼ばれるプロモーターだった。過去に数件殺人事件を犯しながらもなぜかシャバにいる不思議な存在で、モハメド・アリなど有名ボクサーをプロモートした実績もあった。しかし、業界での悪評が多いためカスダマトはタイソンに組んではいけないプロモーターと念を押していたという。

 

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カスダマトが若白髪だったのに対して、ドンキングは逆立ちしたヘアスタイルがトレードマークだった。寝ているうちに勝手に逆立ち始めたそうで、「神の啓示」があったと本人は言っていたそうだ。

 

ドン・キングと組んだことで、マイクタイソンのメンタル面をサポートしていた従来のチームは外され、イエスマンばかりが周りに集まった結果タイソンの私生活は乱れるようになる。すると、トレーニングにまともに取り組まなくなり、結果として精彩を欠いた試合が続きついにはTKO負けをしてしまう。

 

「高い次元においてリング上の勝敗を決するのは、肉体のメカニズムではなく精神力である」

 

という前述のカスダマトの言葉はこのことを指していたのかもしれない。

 

天使のような「カスダマト」と悪魔のような「ドンキング」に挟まれたマイクタイソンだが、「困ったときに助けてくれたドンキングにも感謝はしている」と発言していたという。

 

対戦相手の耳を噛みちぎったり、トラを飼ったり、レイプ疑惑があったりと狂暴凶悪なイメージのあるマイクタイソンだったが、一体何を考えて生きてきたのだろう。

 

マイクタイソンの名言集というものがあって読んでいると、理知的な言葉が並ぶ。そういえば、愛読書がキルケゴールだとどこかで読んだことがある。

grapefruitmoon.info

 

「なぜ日本人は俺をアメリカンドリームだなんて言うんだよ!違う!何もわかっちゃいない!俺はアメリカの悪夢なんだ!」

 

とても気になる一節だった。

 

実は一番冷静に世の中を観察していたのは「カスダマト」でも「ドンキング」でもなくマイクタイソン自身だったのではないだろうか。

 

引退した現在は好きだったハトの飼育に没頭しているらしい。

 

マイクタイソンの一連の成功と転落の物語は「ボクシングの世界王者」になることではなく、ハトを殺されて暴力に目覚めた人間が、天使と悪魔に見染められ一周回って「元のハト好きの人間」に戻るところに本当の意味があったのではないかと思っている。

【鳩の被害に】ピーコン忌避剤 ジェル【強力な嫌がらせ】

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