ヨナオシクス

まったり三十代フリーライター(ワープア)の活動日記です。お金と愛が不足しています。

シンギュラリティという21世紀の金の子牛の話

巷は空前のAIブームである。

 

多くの人間の仕事がAIに取って代わられてしまうとも言われているが、煩わしさが最高潮に達した結果全てをAIに委ねてしまいたいと感じる今日このごろ。

 

そういえば、ガングロカフェが人手不足に悩まされているらしい。

AIならこの問題をどうにかしてくれるのではないかと期待してしまう。

www.j-cast.com

 

そして、「シンギュラリティ」という言葉もよく目にする。指数関数的に進化をする人工知能2045年くらいに人類を知性で凌駕するらしい。可能性としてはあるんだろうなと思う。

 

技術的特異点 - Wikipedia

 

指数関数的と聞くと「ムーアの法則」を思い出す。インテルの創業者が半導体の集積率が指数関数的に増えていくことを説明したものだったが、一時期法則が崩れたみたいなニュースを見たことがあった。今はどうなっているのだろうか。

 

また、永遠に続くようなイメージを指数関数的という単語に抱いてしまいがちだが、指数関数的に増加すると言われていたエボラ出血熱の騒ぎも結果的に収束していたので、継続期間については若干疑問符が残る。

 

どの程度の期間AIは進化しつづけられるのだろう。そして、どの程度のレベルまでAIは成長するのだろう。シンギュラリティの当初の予測まで行かずとも、それなりのレベルには達するような気はする。

 

まあ、それよりも自分が2045年まで生きていられるかどうかの方があやしいのだが。

 

このシンギュラリティについては賛否両論様々な意見があるようだ。個人的に気になった意見に以下のようなものがあった。

 現実を見よう。技術的特異点は、科学的なビジョンというよりは宗教である。SF作家のケン・マクラウドは「コンピューターマニアたちの携挙(the rapture for nerds)」という名前を授けている。つまり、歴史の終末であり、イエスが現れ信仰者を天国へと導き、罪人を後に残していく瞬間である。このような超越的なものを願う理由は、完全に理解可能である。個人としても種としても、我々は致死的に重大な問題に直面している。たとえば、テロ、核拡散、人口過剰、貧困、飢餓、環境破壊、気候変動、資源枯渇やエイズなどである。エンジニアと科学者は、我々がこれらの世界の問題に立ち向かい、解決策を発見することを支援するべきなのであって、技術的特異点のような夢想的、疑似科学的ファンタジーに浸るべきではない。

 

テクノロジーを盲信する人と宗教を信じる人に不思議な類似性を感じたことがあったが、シンギュラリティをAIという神を作り出す行為だと捉えるとあながち外れてはいないのだろう。よく一流の科学者になればなるほど神を信じるようになると言われるが、この辺りの相関関係がとても気になる。

 

日本人にはあまり馴染みがないが、キリスト教の世界観には「終末」という概念がとても色濃く反映されている。「始まりがあって終りがある」のである。

 

そして、シンギュラリティの話を聞くと旧約聖書の「金の子牛」という話を思い出す。

 

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出エジプト記』によると、モーセシナイ山において神から十戒の石版を授与されるまでには40日の期間を要したとされているのだが、麓に残されたイスラエルの民は時間の経過と共に忍耐力を失い、ついには、モーセは死んだと思うようになった。不安になった民はアロンのもとに相談に出向き、苦肉の策として民族を導いてくれる新しい神の制作を懇願する。アロンはそれに応じ、全民衆から貴金属の提出を命じる。こうして鋳造の金の子牛が完成したのである。

これを知った神は激怒し、一刻も早く下山するようモーセに命じる。神は民を滅ぼし尽くすとまで言うが、モーセになだめられ思い直した。モーセが下山して宿営地に戻ったところ、民衆は宴に興じながら金の子牛を拝んでいた。怒りに満ちたモーセ十戒の石版を破壊するやいなや、金の子牛を燃やし、それを粉々に粉砕して水に混ぜ、イスラエルの民衆に飲ませた。そして彼はレビ族の者を集め、偶像崇拝に加担した民衆の殺害を命じる。同書では、そのとき死んだ民衆の数を3千人であったと述べている。

 

神は死んだと思った民衆が、自分を救ってくれる神を手持ちの貴金属で作る。

しかし、神は生きていて神の怒りによって鋳造した金の子牛の周りで踊り狂っていた民衆は死んでしまう。

 

拝金主義の比喩として用いられる話のようだが、テクノロジー信仰にも同様に適用できるような気はする。

 

人間のやることは数千年前から変わっていないようだ。

21世紀の金の子牛は一体どのような姿になるのだろうか。

 

しかし、聖書の神はなぜすぐキレるのか。

神の怒りを鎮めるシステムを作る方が順番的に先のような気がする。

お盆と芥川龍之介と蜘蛛の糸の世界

お盆である。

 

そこで、盆について調べてみる。

お盆 - Wikipedia

 

 お盆(おぼん)とは、夏に行われる日本の祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。

かつては太陰暦の7月15日を中心とした期間に行われた。現在では太陽暦の8月15日を中心とした期間に行われることが多い。

 

奇祭だと思っていた盆踊りにも目的があるようだった。

15日の盆の翌日、16日の晩に、寺社の境内に老若男女が集まって踊るのを盆踊りという。これは地獄での受苦を免れた亡者たちが、喜んで踊る状態を模したといわれる。夏祭りのクライマックスである。 

 

地獄の蓋が開き、現世に舞い戻った亡者がつかの間の娑婆の空気を堪能できる貴重なイベント、それがお盆。これは、つまりあの世でもさらに苦しむことが確定しているということなのだろうか・・・。

 

そして、地獄といえばかの有名な小説家芥川龍之介は、この世をよく地獄に見立てていたそうだ。

 

自身の遺作として有名な「ある阿呆の一生」の中でも、生まれてきた自分の息子に対してこのようなことを書いている。

 

 なんのためにこいつも生まれて来たのだろう?この娑婆苦の充ち満ちた世界へ

 

ちなみに娑婆は刑務所の外の比喩でよく使われるが、

本来は、

 

苦しみに満ちた耐え忍ぶべき世界」

人間の住む世界

 

など正反対の意味があることを知って驚いたことがある。

実はこの世が地獄だったと暗喩しているのでなおさらである。

 

そして、その芥川龍之介の代表作の中に「蜘蛛の糸」がある。

個人的にとても好きな話だ。

 

カンダタという盗賊が地獄の底にいた。

一匹の蜘蛛を気まぐれで助けたことにより天から一本の蜘蛛の糸が垂れてくる。

その糸を頼りに上へ上へと登っていくが下からは他の地獄の住人が後に続いてくる。

「この糸は俺のものだ」と言い放った途端糸が切れてカンダタは最後地獄へと堕ちていく。”

 

全文は青空文庫の中に。

芥川龍之介 蜘蛛の糸

 

この地獄から這い上がろうとするカンダタのような人々を何人も見てきたが、

堕ちていった人々に共通する法則があることに気がついた。

 

それは彼らの発する言葉の主語に「I(アイ)」が多いことだった。

「俺は」「私は」の「I(アイ)」である。

 

また、彼らは「You」もよく使う。

「あいつは」「お前は」と。

 

そして、彼らの辞書からは「私達」を意味する「We」が全く失われていたのである。

Youを使うとき相手との間に仕切りがあるが、Weを使うときそこには仕切りがない。

 

糸を登る過程で言葉を失うのは、「雨が降ったら地面が濡れる」くらい人間にとって逃れられない定めなのだろうか。

 

「人生は地獄よりも地獄的」とはよく言ったものだと思う。

 

刑務所の中 (講談社漫画文庫)

刑務所の中 (講談社漫画文庫)

 

 

依存症とアダルトチルドレンと負のPDCAサイクルの話

ある時期からアルコールを飲み出したら止まらなくなり、原因究明のため依存症について色々と調べていたことがあった。

 

過去にもこんな記事を書いた。

 

www.yonaosix.com

 

www.yonaosix.com

 

また、依存症について色々読んだ中で良かったものの中に齋藤学という精神科医の書いた「薬物依存と精神療法」という記事がある。

 

これは依存症問題を抱えている人は是非一度目を通してほしいと思っている。

 

www.iff.co.jp

 

特に重要だと思った部分の一部を引用したい。

 

 近代の市民たちは老若男女を問わず自らの価値に懐疑的になっていて、他者の承認や拍手ばかり求めている。拍手をもらうためなら、かなり危険で無理なことまでやってのける気になっている人がありふれているという点をさして、現代は「ナルシシスト(自己愛者)の時代」とも呼ばれる。

 

矛盾することだが、自己愛者は自己を愛していない。他者の評価ばかり気にしているから、自らの中に自己を承認し、愛する部分が育たない。それどころか、思いどおりに動かない自己に対して、「意志の力」という鞭を当て続け、その痛みが「耐え難い寂しさ」として感じられる。この痛切な感情は、感情鈍麻という心的防衛を経て、退屈感へと移行する。寂しくて退屈な人は、愛されたい対象の安全な代替物として食物やアルコールなどの嗜癖対象を選ぶ。真に愛されたい人からは拒絶されるかもしれないが、嗜癖対象なら安全だ。「冷蔵庫はしゃベらない」「酒瓶はあざけらない」。

 

依存の背景にある心理状態のプロセスには以下の流れがあるようだ。

 

「寂しさ」

「退屈」

嗜癖

 

寂しさが退屈を生み、退屈が嗜癖行動に走らせるという説明が体感的にもよく理解できる。

 

寂しさを感じる理由は人それぞれだろう。

では寂しさとは一体どこから来るのだろうか。

 

様々な本を読んだ中で、依存症を患う人間には「心」の問題があると共通して書かれていて、それらでよく目にした単語が「自己愛性人格障害ナルシシズム)」と「アダルトチルドレン」だった。

 

両者の症状の背景に共通して書かれていたのは「機能不全家族」の存在だった。

 

アダルトチルドレン」とは大人になっても子供っぽい人の事を指すのかと思っていたが、正しくは家庭問題がある中で育った子供が大人になってもそのトラウマを引きずっていることを指すらしい。

 

よく依存症の原因は「愛」の不足にあるといわれることがあるが、それは男女関係のそれではなく、自分自身に対しての「愛」を指しているのだと思う。

 

アダルトチルドレンである場合、まず親からの無条件の愛が不足していると言われている。親からの評価を得るため、自分に鞭を打って理想の自分を演じることを繰り返した結果、それを大人になっても引きずってしまったということだろうか。

 

結果としていつまでたってもありのままの自分を愛する事ができないため、寂しさを常に感じることになり、他人からの承認欲求が止まず、渇望感の結果様々なトラブルを起こすようになる。

 

要するに「意志の力」を信じ過ぎて、自己を思うままにしようと闘うと嗜癖する。その闘争の負けを認めて、限界ある自己を受け入れることが、嗜癖から離れるコツである。

 

齋藤学氏が述べる依存症の解決方法に「自己の闘争の負けを認めて、限界ある自己を受け入れること」とある。

 

なぜ、依存症者が闘争の負けを認められないかといえば、負けを認めてしまうことで自分は誰からも愛されなくなると錯覚してしまっている点にあるのだと思う。

 

アダルトチルドレンを由来としている依存症者の場合、自己の闘争を終わらせる一番最初のステップが「親を許すこと」にあるらしい。仕組みとしては、親を許すことで姿の見えない寂しさから解放され、ありのままの自分を受け入れることができ、次第に自分を許せるようになるということなのだろうか。

 

自分の闘争の負けを認めることは決して悪いことではないと思う。

PDCAサイクルで例えるととても分かりやすい。

 

Plan(計画)

Do(実行)

Check(評価)

Action(改善)

 

この仕組は人間に対しては欠陥のある考え方だと思う。

なぜなら人間はそう簡単に自分の失敗を認められるような都合の良い生き物ではないからだ。

 

Checkの段階で自分の失敗を認められないため、問題の根底にある部分も改善されず、問題の根を抱えたまま新たなPlanを練ることになり、負のPDCAサイクルは延々と繰り返される。

 

これが自分の闘争の負けを認めることで「改善」のプロセスが機能してサイクルが正常化する。

 

大人になって問題行動が多い人は目の前の出来事そのものに原因があるというよりも、生まれて来てから現在に至るまでに蓄積されたものに原因があり、とても根が深いものだと思う。

 

あくまでも自分用にカスタマイズした仮説なのでどこまで普遍性があるかは分からないが、一つ一つ釣り糸をほどくように向き合うしかないのだろう。

 

アダルト・チルドレンと家族―心のなかの子どもを癒す

アダルト・チルドレンと家族―心のなかの子どもを癒す

 

死のある風景

「死のある風景」

 

暑さによってそんな言葉がふと頭に浮かぶ。

調べていたら同名の小説があるようだ。

 

思い起こせば三十数年の間に多くの死が目の前を通り過ぎていった。

 

一番初めに目にした死はどのようなものだっただろう。それは、とても昔のことで幼少期に信号待ちの車の中から見た車に轢かれて倒れていた女の子だった。その場では何が起こっていたのかよく分からなかったが、後日同じ場所を通り掛かるとそこには花束がたむけられていて、そこで初めて事実を飲み込めた。

 

それまでも、親戚のおじいさん、おばあさんが亡くなると骨へと変わっていく姿を目の当たりにしてはいたが、お年寄りにだけに約束されていたと思っていた「死」は誰のすぐ側にもあるものだと理解した瞬間だった。

 

それからも死は身近で姿を現した。学生時代には受験に失敗した子が自身の命を絶ってしまっていた。直接の知り合いではなかったが、もっと粘って別の生き方を模索してもよかったのではないかと自ら命を絶つ理由がよく分からなかった。

 

身内の死を経験した時に一番「死」を身近に感じたような気がする。それまでは死は対岸の火事のようなものだったが、死神に順番待ちの整理券を手渡された瞬間だったと思う。それからというもの、いつ来るか分からない死に怯えながら生きていたような気がする。

 

さらに、社会に出るともっとたくさんの死が現れる。

 

「自ら命を絶つ人、業務中の事故で亡くなる人、超人のように体を鍛えていたものの病気であっという間に亡くなる人」

 

これだけたくさんの事例があると、老後まで生きるのが当たり前という概念は消え失せて、もはや死は隠された遠い世界のものではなくなってしまった。

 

日常生活でその姿を確認することは難しいが、今この瞬間も長短バラバラの寿命のろうそくは煌々と明かりを灯してその灯芯を削っている。

 

死が姿を現すことの意味は、逆説的だがいつまでも自分の生が続く訳ではないことも示している。そして、それは自身の本来の役割に気がつかせてくれるシグナルであるとも思っている。

 

作家の故中島らも氏は次のようなことを言っていたそうだ。

 

人間にはみな「役割」がある。その役割がすまぬうちは人間は殺しても死なない。逆に役割の終わった人間は不条理のうちに死んでいく。

 

「呼吸だけが自分が唯一続けられていることだ」と冗談でいうことがあるが、様々な死を見ているとここまで続けていられる自分を純粋に褒めていいのではないかと悩んでしまう。

 

ロックスターは27歳だったが、次は何歳がマイルストーンなのか。

厄年とかかな。。

死のある風景 (文春文庫)

死のある風景 (文春文庫)

 

暑さと老い

連日の暑さが思考力と気力を奪っていく。

8月になれば少しはマシになるのだろうか。

 

今年は異常な暑さだが、ここ数年間夏場は毎年異常な暑さを繰り返していたと思う。年々暑さに対する耐性が弱まっている気がするのだが、これは年々気温が高くなっているからなのか、自分が年々老いていっているからなのか。

 

老いたといってもまだ30代後半であるし、若者とまではいかないものの全然余裕があると思っていた。しかし、明らかに精神面、肉体面を含めて若者ではなくなったと感じるようになっていた。

 

肉体面については明らかに疲労が取れずらくなっていて、関節が痛い。

 

精神面においては新しい対象への渇望が薄れている。全てが焼き直しのように見えてしまう。デジャヴとでもいうのだろうか。あまりにも外への関心がなくなりすぎて、これはこれで問題があるような気もする。

 

他にも他人への関心が薄れている。20代と30代前半は外の世界へ知覚のパラメーターを全振りした反動なのか、今は自分の内側に関心が向いている。特に自身の依存症の原因を追求する中で「内観」の重要性に気がついたあたりからフェーズが変わる。まるで、幸せの青い鳥のような話だとも思う。

 

また、「かっこいい中年像」のようなものも考えていた。昔思い描いていたかっこいい中年といったら、口数が少なく、孤独に強く、哀愁が漂うといったものであったと思う。その条件だけに絞ったら当てはまるものの、実際はかっこいいとはほど遠い。あとは何が足りないのだろう。

 

そして、だんだんと昔の年配の上司が見えていたものが見えるようになってきたような気もする。若いうちは「このおじさん達は何故生きているのだろう」といった目で見ていたが、いざ自分が年齢を重ねていくと彼らの言葉の一つ一つの意味を読解できるようになっていた。別の言葉で言い換えると彼らの発していた「あー」の意味が分かるというか。

 

おじいさんやおばあさんと話をしていて思うことも、彼らは伊達に長生きをしていないということだ。一見弱々しく見えるがよく物事を見ていて、対面すると全てを見透かされているような気分になる。彼らは物事を理解していながら沈黙を貫いているのだ。

 

外がこんなに暑い中外で働いている老齢の方を見ると頭が下がる。そして、自分の感じている老いはただの甘えのようなものなのだなとも思う。

 

とりあえず老いは進むしどうにもならないので、淡々と日々生きていこう。

そして暑い。

 

「自己愛過剰社会」と「依存症ビジネス」を読んで依存症を考える

「依存症」という言葉が世に氾濫している。

 

 

など「依存症」を語尾につければなんでも依存症になってしまう気もするが、本来は「快楽」である行動がなぜ「不快」に変わってしまうのだろう。「やめられない止まらない」というかっぱえびせんのキャッチコピーはまさにジャンキーの自分のためにあるようだなと思う。

 

 

色々読んだ中で良かった本を紹介する。

「依存症ビジネス」と 「自己愛過剰社会」というものだ。

依存症ビジネス――「廃人」製造社会の真実

依存症ビジネス――「廃人」製造社会の真実

 

 

自己愛過剰社会

自己愛過剰社会

 

 

依存症ビジネスで依存症の外部要因と内部要因を仕分けする。

 

依存症にまつわる様々な本を読んだがシンプルに、

 

  • 外因性
  • 内因性

 

の両軸で考えると分かりやすいと思う。

「外因性」とは社会構造、産業が生み出す製品、メディアなどの影響のことで、「内因性」とは個人が生まれてから現在に至るまでに辿った軌跡またはその人の歴史のことだ。

 

依存症ビジネスの中で「ヘロイン」について触れられていて、ベトナム戦争中の兵士はヘロインを打ちながら戦っていた兵士が多かったそうだ。ヘロインと聞くと一度手を出したら廃人になってしまうイメージがあったが、帰還した兵士の多くは廃人になることなく通常の生活に戻っていったそうだ。

 

依存症と効くとお酒であれば「アルコール」、タバコであれば「ニコチン」に原因があると今までは思っていた。たしかに依存性のある成分は入っているようだが、依存症の根本にあるのはそのような「外因性」のものよりも、使う人間の心の奥底にあるもの、つまり「内因性」のものに本質的な原因があるという。

 

つまり、兵士が直面していた過酷な戦場という環境が彼らをヘロインに依存させていた可能性があるということだ。

 

「依存症は自ら選んだ障害」と依存症ビジネスはそのことについてもしっかりと触れている。

 

自己愛過剰社会で内的要因の原因を整理する

様々な「依存症」にまつわる書籍を読むと「ナルシシズム」「自己愛性人格障害」との関連が指摘されている。今までは「ナルシスト」は自分の事が大好きな人の事を指すのだと思っていたが、実のところは「素の自分が嫌いなので理想の自分を追い求めてしまう」精神構造があるようだ。

 

個人的な話になるが一日一食を実践していた際に参考に読んだ本の中に、「飢え」について「体が飢えているのではなく心が飢えている」ようなことが書かれていた。

 

それを読んでたしかに栄養としては十分とれているはずなのに、なぜこんなに頻繁に食べているのだろうと疑問に思ったことがある。断食をしていた人が「食事は娯楽」だと言っていたことがあり、「娯楽」を求める裏側に心の「飢え」の秘密があるのではないかと仮説を立ててみた。

 

このロジックはアルコールにも当てはまり、「のどが渇いているのではなく心が乾いている」と考えると大量飲酒の原因究明にも応用できる。毒物を積極的に摂取する姿勢は自然なことではないだろうし。

 

では、「心の飢え」の原因を様々な依存症の本で書かれている「ナルシシズム」に焦点を当てて考えてみる。

 

自己愛過剰社会で気になった点をメモをとった。

 

  • ナルシシズムは短期的な成功には有効であるかもしれないが、長期的には成功とほど遠くなる
  • ナルシシストは派手で、人目をひき、破滅的だ
  • 経済が順調なほどナルシシズムは強まり、経済的に困難であるほど名声を求めなくなる
  • 1970年代から離婚率が増え、自己愛性人格障害という言葉が生まれた
  • 「マイ」のつく商標やドメインが21世紀の初頭に増えた
  • SNSで若者が学んだことは、いつでも楽しむものがなくてはいけない、手に入れたら見せびらかす、成功とは消費者であること、幸せとは性的に魅力的な大人
  • ナルシシズムは長い目で見れば他人も自分も傷つける
  • 摂食障害者は傷つきやすい
  • 虚栄心に競争心が加わりナルシシズムが増加する
  • ナルシシストとの恋愛は華やかにはじまり、ボロボロになって終わる
  • ナルシシストは人をあまり赦さない
  • メディアは繁栄や自己賛美などの華やかな面だけ取り上げて、疎外や社会崩壊といった負の部分は見せない
  • 自分への慈しみはナルシシズムの治療薬
  • 自分への慈愛は自分を賛美したり、高く評価することでもだめな自分を弁護することでもない
  • 現実を正しく受け入れて自分にやさしくなること

 

自分に心当たりのあるものが数多くあった。

直接的な解決策は提示されていなかったが「許すこと」が欠落しているのではないかとヒントを与えてくれる。「他人を許せないのはまず自分を許せていないから」ということなのだろうか。

 

そして、許せない原因をもっと掘り下げていくと「アダルトチルドレン」の話に突き当たるが、それはまた別の回で書いてみたいと思う。

 

ジャンキー (河出文庫)

ジャンキー (河出文庫)

 

 

NHK映像の世紀と21世紀の見えない戦争

映像の世紀」と呼ばれるNHKが制作した番組がある。

 

モノクロの20世紀の映像を時系列に並べているのだが、

時間が経つのを忘れて見ていられる。

NHKはドキュメンタリーはクオリティがとても高い。

受信料徴収するよりオンデマンドで見たいものだけ見せてほしいといつも思う。

 

映像の世紀で多くの発見があったのが第一次世界大戦だった。

 

当時ヨーロッパの王族は王室間で政略結婚を繰り返していたため、

当時のイギリス国王ジョージ5世とロシア皇帝ニコライ2世の顔がそっくり

だったらしい。

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様々な国に分裂していたものの、

王族間の血のつながりがあったためなのか第一次世界大戦までの戦争

は一部の戦闘要員同士で戦い、ある程度勝敗が見えたら手打ちを

するというどちらかといえば「スポーツ」感覚のものだったそうだ。

 

第一次世界大戦はそのようなスポーツ的な戦争を、

「総力戦」と呼ばれるあらゆる人間の総力を結集したものへと変えてしまった

という。

 

戦争を総力戦へと後押しを行ったものが産業革命によるテクノロジーの革新であり、

飛行機、戦車、マシンガン、毒ガスなど現在へと禍根を残す大量破壊兵器

萌芽は第一次世界大戦で芽生えたと言っても過言ではないだろう。

 

映像の世紀で有名なシーンに後のイギリスの首相となったチャーチルによる

第一次世界大戦の総括を紹介するものがある。

そこでは人類の未来を見通していたかのような鋭い洞察がなされていた。

 

それは以下のようなものだった。

戦争から、きらめきと魔術的な美がついに奪い盗られてしまった。
アレクサンダーやシーザーやナポレオンが、兵士たちと危険を分かち合いながら、
馬で戦場を駆け巡り、帝国の運命を決する。
そんなことはもうなくなった。
これからの英雄は、安全で静かで、物憂い事務室にいて書記官たちに取り囲まれて座る。
一方、何千という兵士たちが、電話一本で機械の力によって殺され息の根を止められる。
これから先に起こる戦争は、女性や子供や一般市民全体を殺す事になるだろう。
やがて、それぞれの国々は大規模で、限界のない、一度発動されたら制御不可能となるような
破壊の為のシステムを産み出すことになる。
人類は、初めて自分たちを絶滅させることが出来る道具を手に入れた。
これこそが、人類の栄光と苦労の全てが最後に到達した運命である。 

 

第二次世界大戦が終わり一見戦争が終わったように見えたが、

20世紀の後半は工業と経済という分野で「見えない戦争」が引き続き行われて

いたのではないだろうか。

日本における3万人という年間の自殺者の数字は戦争の死者として

捉えると現実味を帯びてくる。

 

道を歩いていると道路脇に花束がたむけられている光景を目にすることがある。

恐らく交通事故によって命を落とされた方がそこにいたのだろう。

経済戦争で生み出されたものが一般市民に危害を加える場面に

出くわすたびにチャーチルの言葉が頭に浮かぶ。

 

また、第二次世界大戦中の新聞を閲覧したことがあるが、

当時の新聞には軍人の写真がところどころに貼られていて

戦争の勝敗について様々な記事が日々掲載されていた。

 

それはまるでワールドカップの勝敗とスター選手の記事を

連日載せている現代のニュースに通ずるものがある。

人間の本能として「戦争」は常にどこかに存在しているということなのだろうか。

 

では、21世紀の戦争はどのようなものになるのだろう。

インターネットの普及による新たな産業革命は「情報革命」とも呼ばれている

そうだが、そこで行われる戦争は情報戦争の様相を示すのだろう。

 

2chの創設者であるひろゆき氏は、

 

「自分に子供ができたら2chを見せない教育ではなく、2chを見せても大丈夫な教育をする」

 

と言っていたそうだ。

要は自分に都合の良いもの悪いものを含めて

自分の頭で冷静に考える習慣をつけるということなのだろう。

 

話をまとめると、

テクノロジーの仕様は変わっているが人間の仕様は変わっていない。

ただ、オプションだけがやみくもに肥大化しているだけなのだ。

 

今の状況を例えるなら、車のディーラーでオプションに「カーナビの他にロケットランチャーもつけときますか?」と聞かれているようなものなのかもしれない。